1979年

鎌倉の関野光延君が、女房とのお別れに来てくれました。1979年、オレは21歳、女房19歳、光延君高校1年生、そんな時にオレ達は出会いました。宮崎へ向かうフェリーボートの中でした。関野聡君はまだ中学生でした。ハレイワからマービンフォスターも初来日していて一緒でした。この旅から自分の人生が大きく変わった気がします。舵は思い切りサーフィンに傾いたのです。そんな旅を共にしたオリジナルメンバーの逝去に光延君が駆けつけてくれました。女房に聞こえるように2人で2時間ほど、懐かしい話しに花が咲きました。宮崎のこと、ハワイのこと、和田に来た時のこと、鎌倉にお邪魔した時のこと、いろいろな話しに花が咲きました。「通夜や告別式に来てもゆっくり話せないからね、こんな時お邪魔してごめんね!」そう言って光延君は立ち去りました。ありがとうございました。またゆっくり会いましょう!

1979年宮崎、左から眞弓、光延、コイドン、マービン。オレはカメラマン役でした。

これは、宮崎から3年後、ハレイワでマービンと再会した時のもの。またもオレがカメラマン役、、、あの清楚でおとなしい眞弓さんの若かりし頃。ハワイアンきってのヘビーロコにてビッグウエーバー、悪童マービンと肩組んで写真撮ってたんだぜ!そんな一枚です。なめたらあかんぜよ!ってか?

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無題

01/18、医師から病状宣告を受けてから05/05までの109日間、これまでの人生で経験したことの無い辛くて悲しくて厳しい日々でした。逆にたくさんの気づきも得ることができました。命の尊さを知り、周りの人達の優しさに触れて助けられました。ありがとうございました。

女房は、ああ見えてなかなか頑固なところがあります。抗がん剤治療ははなから選択肢にはなく、あっさりと緩和ケアを選びました。3か月と僅かな日々をやり残したことをやり切り、質の高い日々を過ごしました。あっぱれな日々でした。とても私には真似することはできません。死生観というのは人それぞれ、何が正解で何が間違いなのか?判断するのは難しいものです。

5月5日午後4時43分、家族に見守られる中、ゆっくりと静かに息を引き取りました。病からも解放されて痛みに苦しむこともないです。同時刻、クラブハウスで祈ってくれていた全員が、誰かが外の砂利を歩く音を聞き、ドアを開けて確認するとそこには誰もいなかったそうです。新潟でも同時刻に、まだ真新しいすーさんのゾーリの鼻緒がプチンと音を立てて切れたそうです。東洋医学では、悲しみから来る痛みは肋骨の奥の方に溜まると言われています。胸の奥がチクチク痛むのはそのせいでしょうか?

この場を借りて生前お世話になった多くの方々に今一度御礼を申し述べます。ありがとうございました。

          1977〜2024

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